防災・減災への指針 一人一話

2013年10月25日
減災都市多賀城の実現に向けて
多賀城市役所 総務部交通防災課
松戸 幸二さん
多賀城市役所 総務部交通防災課
田中 勲さん

発災時の行動

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(松戸様)
 発災当日は叔父の葬儀に参列する予定でした。
 地震の揺れが収まった後に、すぐ職場に戻らなくては行けなかったので、1時間ほどで職場に戻りました。
当時、多賀城は防災行政無線ではなく、有線回線の広報装置を使っていました。
広報装置は、特に水害の被害を受けやすい市内13カ所に設置されていまして、それを用いての緊急放送を交通防災課が実施しました。
1回目の広報では全て起動しましたが、2回目以降では一部が起動しなかったと聞いています。
後で市民の皆さんから、市役所からの情報がなくて不便だったというご意見を頂戴しました。
震災前のマニュアルでは防災広報装置と、公用車による巡回広報で市民の方へお知らせをする手筈になっていましたが、それらの広報を十分に機能させられませんでした。
巡回広報も、交通渋滞と、地震から1時間以上経過した後では津波の被害もあったので十分な広報をできませんでした。
これらの要因が重なり、情報不足というご意見に繋がってしまったのだと思っています。
 職員の初動から動き出すまでの部分は、比較的マニュアル通りに動いていたように感じます。
防災訓練や大雨が降った時、台風が近づいている時に取る対応はどこの自治体も同じだと思いますが、多賀城市でも、災害対策本部を設置し、状況把握のために職員を担当地域に派遣しました。
施設を有している部署においては施設の被害状況を把握するために情報を回し、職員の安否確認をしていました。
ただ、その時点で電気が止まっていたので、十分な情報収集ができなかったと聞いていました。
 また、午後4時過ぎから、津波が到達している状況が無線機などで入ってきました。
今でこそ当時の映像を見ることができるのでイメージできますが、当時は多賀城にあれほどの津波が襲ってくるというのは想像以上の出来事で、頭の中でも心の中でもイメージすることができませんでした。時間の経過とともに多賀城の大変な状況が徐々に判明してくるというのが、当時の印象でした。
 市民の方との関わりという部分では、発災直後ですと、当時は全ての情報伝達手段、特に電話が使えなかったので、市役所に直接来られた市民の方との対応でしか関わっていませんでした。
そのほとんどは安否確認に来られた方でした。「家族と連絡がつかない。どこの避難所にいるか分かりませんか」「どこに行けば家族に会えますか」「避難者の名簿はまだ出来ていませんか」というような情報を欲しておられました。
先ほどのような情報が聞こえないというご意見や市役所の対応に関してなどよりも、発災直後の市民の方の安否確認と避難場所の確認、そうした部分で、私は市民の方と関わりました。

(聞き手)
 当時は、どのような状況でしたか。

(松戸様)
 発災直後ではまだ組織体制が整っていなかった上に電話も繋がらないので、市民の方は、とりあえず縋る場所として災害対策本部にいらっしゃったのでしょう。
交通防災課の事務室が災害対策本部の事務室と隣同士だったので、市民の方が交通防災課の事務室に直接来られて、それに対応した形でした。
ですが、それですと災害対策の業務が滞ってしまうので、市役所の一階、つまり案内のところに総合窓口を設置しました。

(田中様)
 当時、私は自衛官でした。陸上自衛隊多賀城駐屯地で教育を受けておりました。地震の直後、すぐに災害派遣の準備を行いましたが、その時に私たちは組織上、直接担当する地域がありませんでした。
ですが、あまりに被害が甚大だったので他の部隊に編入されて、12日の朝に野蒜小学校へ向かいました。そこで1週間ほど、救出や捜索を行うことになりました。
 体育館が避難場所として指定されていたのですが、野蒜付近は特に被害が大きく、体育館に避難された方の大半が津波で亡くなられたそうです。私が着いた時にはまだ、ご遺体が小学校の敷地内や道路の横などあちこちにありました。
中には三重、四重になった車の中でシートベルトをしたまま亡くなった方もいました。
1週間ほど救出活動などを行っていましたが、そちらでの任務が解除され、今度は石巻に行くことになりました。
当初は支援物資の配布などを行いまして、石巻市民の方と接することができました。そこで、公的組織の者が被災者に接する時には、被災者の目線に立って接することが一番大事なのだと感じました。
冬で寒い時期でしたが、私たちは手袋なしで作業して、食事も人の見えるところでは取らないようにし、休憩もなるべく取らない、取っても人に見せないように心掛けていました。
 そうして一カ月ほどが過ぎた後、今度は私たちの本来の任務である、即応予備自衛官を受け入れる仕事を始めました。その方たちを連れて、また石巻へ行き、同じように支援活動をしました。最後の頃は石巻の門脇小学校前の住宅街でがれき撤去を行っていました。

(聞き手)
 多賀城市に勤務されたのかいつからですか。

(田中様)
2011年の10月からです。3月に発災があったその年に定年退官し、その後、交通防災課に配属になりました。

災害対策本部会議と構成メンバーと伝達系統の問題

(聞き手)
 様々な対応の中でうまくできたと感じる点や、逆にうまく対応できなかった点、大変だと感じたことなどをお聞かせください。また、防災計画や防災マニュアルはどのように活かされたのか、今後の防災における課題も併せてお願いいたします。

(松戸様)
 災害対策本部では最初の1~2日、多賀城市職員だけで本部会議を行っていました。
市役所内には、自衛隊や警察、消防などの情報連絡員の方もいらっしゃったのですが、ある時に自衛隊の中隊長さんから、「私たちは多賀城市の指示で動きますが、内容が分からないので本部会議に参加させてください」と言われました。
その方たちにも入ってもらわないといけないということに気付き、それ以降は、警察、消防、自衛隊と一緒に本部会議を開くようにしました。それに加えて国土交通省の方と、情報連絡員として宮城県職員の方にも入ってもらうといった改善を図ることができました。
 恐らく、当時、会議に関わった全員が感じていたと思いますが、本部会議で決定したことが、避難所の職員や住民の方たちといった隅々までうまく行き渡らなかったのです。
逆に、避難所や地域にいる方の声も、災害対策本部までなかなか上がって来られないということがありました。
情報が込みすぎて、正確な情報だけでなく、間違った情報が紛れ込んでいたこともあったので、それを何とかしようということになりました。
今まで、本部会議は市役所幹部の会議だったのを、夕方の会議を調整会議と称して、本部員と避難所職員を統括するブロック長にも入ってもらって会議を開きました。
災害対策本部ではこういうことが決定したという話や、翌日以降の水道などの復旧計画を話し、避難所や避難者の方の声をブロック長を経由して災害対策本部に知らせてもらうようにしました。
マニュアルにはありませんでしたが、そのような会合を作って互いに情報共有を図れたのは良かった点だと思っています。
 また、市民の皆さんが災害対策本部に殺到してなかなか業務を進められなかった状況の中で、市役所1階に総合案内窓口を設置しました。
地域コミュニティ課と議会事務局が中心になってもらって作りました。
避難者の照会、安否確認などを一度そこで受け止めてから、それぞれの担当部署に割り振るようにしました。
 その後、電話が復旧した時にはひっきりなしに電話が掛かってきて、災害対応業務に専念できない時期がありました。
そこでコールセンターを別室に設けて、そこでまず用件を聞き、コールセンターで解決できるものは解決して、解決できないものを各担当課に回すようにしました。
総合案内窓口コールセンター設置も調整会議も、マニュアルに書いてあるわけではないのですが、それまで経験してきた失敗や課題を、どうすればうまく克服して仕事を回すことができるのか考えて日々変化させた結果だと思います。

配給用カードという工夫

(松戸様)
 避難所でも大変でした。
例えば、食事はもらいに来た方に配りますが、中には三人のご家族が各々、配給を三人分、つまり九人分もらっていくようなこともあったと聞きました。
ですが、それはその方たちが悪いと考えず、配給の方法が悪かったと考えるようにしました。
そこで、配給用のカードを使ったり、証明書を使ったりと、工夫して改善していった話を聞いたので、そうしたところは良くできた点だと思います。
 市民の方からの苦情で、「避難所にいる人には食糧を配るのに、自宅避難者には配ってもらえない」というものがありました。
この方法は、震災前からの多賀城市の避難所運営スタイルでもあったのです。避難所にいる方以外の方には配らないというルールがありました。
ですが、震災の時には、避難所が満杯で、自宅の水も電気も止まっていた方でも、自宅の方が良いと判断して、自宅に戻られた方もたくさんいました。
そうした方は食糧をもらいに避難所にいらしたのですが、その時には、ここに避難された方ではないからと、配給をお断りしたのです。
最初は、同じ避難者なのにどうして私たちだけもらえないのかと、だいぶお叱りを受けました。
その後、自宅避難者へも配れるよう、食糧の配り方もだんだん変わっていきました。そこがうまくいかなかった部分ですが、これも日々、より良い方法を話し合いながら検討して変わっていきました。
 マニュアルや防災計画に関しては、特にマニュアルがあまり役に立ちませんでした。
マニュアルを見る人もいませんでしたし、事前に熟読した上で全て検討して動いていた職員も少なかったように思います。
ただ、震災で何が分かったのかと聞かれたら、マニュアルに書いてある内容の大切さを認識できたということです。震災後に、マニュアルが斬新で新しい形に変更されたということはありませんが、心構えの認識度合いが少し変わりました。

震災前の県の想定では浸水被害なし

(松戸様)
 市の防災計画でも、これまでは津波に関してあまり書いてありませんでした。宮城県で出していた震災前の被害想定では、多賀城は浸水被害を受けないことになっていました。
市の一部が海に面しているので、市民の方に対して「津波も注意しましょう。この地域は津波の危険区域になっています」と、防災講話や訓練の中で啓発する程度でした。
今では、県の被害想定を上回る状況はいくらでも起こりうると思うようになりました。
例えば、満潮と台風と大雨が同時に来たら、被害想定を軽く超えてしまうでしょう。
ですから、万が一に備えて、高台や遠くへの避難を徹底するようにと、震災後に話をするようになりました。
マニュアルや計画よりも、市民や職員が災害を受けてどのように行動するか、人に言われて動いたのでは逃げ遅れてしまうので、各自の判断で動いていただくことが自身の身の安全を守る最善の手段だと話すようにしています。

何をすべきかを職員自らが考えることの大切さ

(聞き手)
 今回のようにマニュアルにない対応をして効果的だった箇所は、新たにマニュアルに盛り込むことになるのでしょうか。

(松戸様)
 現在、新しいマニュアルなども策定中ですので、その中に盛り込みたいと思っています。
例えば、今は、職員に対しての事業継続計画や業務継続計画を各部各課で考えてもらっています。上司の指示を聞くだけでなく、震災の経験を踏まえて自分で何をすべきか考えてもらうことも大切ですので、マニュアルや防災計画以外のところでも経験を生かした取組を始めています。
また、国や県の防災計画の中では地震や津波、風水害の中で計画が進められていますが、多賀城市ではこれらはもちろん、インフルエンザ対策を新たに加えた形で計画づくりを進めています。

(田中様)
 私が石巻で食糧配布をした時にも、配給を受けに何回も来る方がいました。非常時には人の欲が、顕著に現れるものなのだと感じさせられました。
 マニュアルや防災計画の活かされ方についてですが、3・11の災害では、活かされたことはほとんどないと思います。色々なお話を聞きますが、強いて言うならば釜石の津波てんでんこくらいです。
マニュアルがあってもうまく行かないほどの災害だったと思います。私たち自衛官も現場に行ってみて、普段なら情報が入ってくるのですが、まったく情報がないところに行って、何をすればいいのか考えた時に、まずは人がいたら助けて、人がいたら探すという本当に原始的なことから始めたのが実情でした。
普通は、遺体を見つけたら丁寧に扱い、その後全員で並んで敬礼するのですが、それすらも考えられない状態でした。

(聞き手)
 自衛隊の中に、初動対応計画のようなものはありますか。

(田中様)
 ありますが、これまで想定してきた災害があれほどの規模のものではなかったので、何かあった時に部隊を投入するということは決まっていても、どこから投入するべきか本部で悩んだと聞きました。
最初の情報で、ここが助けを求めているからまずそこへ向かい、次の情報でもっと酷いところがあるとわかったらそこへ向かう、そのような状況で動きました。
その中でも、例えば、会議での統制、各種調整、連絡や通報などがしっかりせず、会議の中での情報共有が無駄になったことや、そもそも、情報などを共有できないこともありました。それほどまでに情報が錯綜していました。

(聞き手)
 多賀城駐屯地は津波で車両の多くが被害を受けましたが、どうやって東松島へ向かわれたのでしょうか。

(田中様)
 車で向かいました。正門からの道路は使えませんでしたが、笠神の方から抜ける道があるので、そこから向かいました。主力部隊が当時、利府で射撃訓練をしていたので、本当の主力はいなかったのです。一部が残っていたので、体制に従って向かおうとしたら、津波が来て向かえなかったということでした。

自宅避難者への食糧配給という課題

(聞き手)
食事はどのようにとられましたか。

(田中様)
自衛隊は備蓄がありますので、缶詰、パン等を持って行きました。市職員の方たちは食糧に困ったようでしたが、自衛隊では十分な備蓄がありましたので、そこまで苦労はせずに済みました。

(松戸様)
 訓練の差だと改めて思ったのは、私たち市職員は、市民の方の目があると、食糧があっても食べるのを申し訳なく感じてしまい、我慢してしまうことがありました。
ですが、自衛隊の方は人に見えないところで、交代しながら食事を取っておられて、とてもきちんとご自分たちの管理をしておられました。
私達職員も人を助ける立場としてしっかりしておかないといけないと思いました。
ようやく手に入った食糧を前にすると市民優先だと私たちは考えてしまいます。
職員は先頭に立って働かないといけないので、職員用の食糧の備蓄をきちんとしないといけないと、改めて感じました。
 避難者の方への食糧配給にしても、自宅避難者の方がどれだけいたのか把握できなかったので、どれくらいの量を避難所に持っていけばいいのか分かりませんでした。
他にも、市民の方や自宅避難されている方たちに向けて、ここで食糧配布をしているから取りに来てくださいと知らせても、食糧自体も少ない中でしたので、どれくらいの方が来るのか予測できませんでした。
避難所にいる方たちは、人数もお名前も把握していたので、そちらの方の配布はできましたが、自宅避難者の方への配布ができなかったのが改善点です。

災害時対応の知識・経験の不足

(聞き手)
 自衛隊の皆さんが、人の目に触れずに食事を取ることは基本なのですか。

(田中様)
 基本ですので徹底しました。
常に全ての部署が動いている状態を作っておきたかったので、休憩も交代制にしました。
例えば、休憩しているところを見られてしまったら、「どうして休んでいるんだ」とおっしゃる方もいます。
ですから、組を作って、どこかの組が必ず動いているようにしました。

(聞き手)
市職員の方はずっと動いていたのですか。

(松戸様)
 そうしたマニュアルや指揮系統、そのための知識と経験がありませんでしたので、常に動いていました。
特に、最初の3日ほどはまったく休めませんでした。寝られないし、食べられない状況でした。
3日目の朝にようやく、コップ一杯の水を飲みましたが、今までのどんな食事よりもおいしかった水でした。
その水も普通の水ではなく、炊き出しで使った、今ではとても飲めないような粉っぽいお湯なのですが、本当においしく感じました。
食事はその日の深夜0時に取りましたが、その時に電気が通りました。
 避難所開設の時も大変でしたが、閉鎖する時の方がそれ以上に大変でした。
避難所開設は震災の混乱の中で行わなければいけませんでしたが、状況把握などもしながら何とか開設しました。
避難所閉鎖は9月30日でしたが、実は夏頃から避難所閉鎖に向けた動きはありました。
避難所に残っておられた方の大半は、まだ家の手配がつかないからと残っていた方でしたが、中には、避難所の居心地が良くて出ていきたくないとおっしゃる方も、ごく少数ですがいました。
独り暮らしの高齢者の方で、ここで生活していれば怪我や病気になってしまっても安心できると言われて、自宅は一部損壊で戻れる状態なのですが、避難所開設期間はここで生活したいという方もいました。逆に、避難所にいれば三食出てくるし、イベントや催し物、炊き出しなどが楽しくて出ていきたくないという方もいました。
そういった方には本当に避難生活を余儀なくされている方々のためにと誠心誠意対応して、納得してもらって避難所を出ていただきました。

みなし仮設に住まわれている市民へのケア

(松戸様)
 最近、テレビや新聞では仮設住宅に焦点を絞った形で放送・報道されますが、多賀城の約350戸の仮設住宅、それら以外の場所で避難生活されている方の報道がほとんどないことに気付きました。
いわゆる、みなし仮設のことです。例えば、民間の借り上げ住宅やアパート、借家住まいの方たちのことですが、そうしたところに住んでおられる方は約1000世帯で、仮設住宅の約3倍の数です。仮設住宅を取り上げる報道は間違ってはいませんが、アパートや借家に住んでおられて、未だにご自宅に戻れない生活をしている方にはそういった目が向きません。
視察に来られた方にも私はそういう話を一生懸命に話すのですが、実情を分からない方の方が断然多いのです。この問題を何とか解決できればと思っています。
今回の東日本大震災では、仮設住宅の建設が間に合わなくて、その間も、アパートや借家を仮設扱いとして補助を出すから、そちらに行ってくださいと対応していた部分があります。
それで1000世帯という大きな数字になっているのですが、意外とそこが分かってもらえないのだと思います。
出来るなら、仮設住宅の映像や記事には、みなし仮設情報も一緒に付けて頂けると、まだ自宅に戻れない方や自宅を復旧できていない方たちの全体像が見えてくるのではないかと思っています。

「来ないだろう」から「来るかもしれない」への変化

(聞き手)
 宮城県沖地震などの災害の経験から、活かされた教訓などはありますか。

(松戸様)
 多賀城市には20年ほど住んでいます。チリ地震の時にはまだ生まれていませんが、宮城県沖地震の時には小学生でした。市役所に入ってからは平成6年9月22日の豪雨を経験して、一時間に100ミリを超える雨が降り、市内の広い範囲で浸水被害や道路冠水がありました。
その時は防災担当ではありませんでしたが、多賀城市職員として現場に向かい、腰まで水に浸かりながら避難誘導をした記憶があります。
 災害の教訓が活かされているかということですが、正直な気持ちで言えば、教訓が伝えられていないと感じています。
東日本大震災の一年前にあったチリ地震の大津波警報、宮城県沖地震や50年前のチリ地震津波もそうですが、多賀城はこれらの震災では津波による被害を受けていないのです。
大雨や台風で道路が冠水した、床下浸水したというような被害はありましたが、津波の被害は、ここ100年ではありませんでした。千年前の貞観地震は歴史に残っていますし、多賀城市民も市職員もそれを聞いたことはあると思います。それで津波被害が出たという認識は持っていましたが、それは昔の出来事で、今は防潮堤や防波堤もあり、まさかここまでは来るまいという気持ちが心のどこかにありました。私自身も、仮に津波が来たとしても、冠水被害レベルの津波まではイメージできましたが、あのようにすごい水の勢いで荒れ狂う波は、想像を超えたものでした。
過去の災害の経験が、今回の津波に活かされたかどうかですが、まず避難行動では活かされていなかったと思います。
ただ、千年前に津波の被害を受けて、今回も被害を受けたということは、千年先か百年先か分かりませんが、また起こるかもしれないと私たちは考えるようになりました。
今までは「来ないだろう」と思っていたものが「来るかもしれない」という感覚で災害を見ることができるようになったのが、震災前後で違ってきた部分なのだと思います。
今回の被害を経験した人は、きっと全員思っていることだと思います。

(田中様)
 私も同様ですが、多賀城で一番注意していたのは水害だけだったように感じています。川沿いに住む方たちの水害が一番気になっていたのではないかと思います。
私も多賀城には通算で20年ほど住んでいますが、地方を転勤していたもので、今、松戸さんが挙げられた災害は全て、当時、この地域におらず、経験していません。

(聞き手)
 過去の災害の伝承を聞いたことはありますか。

(田中様)
 母が青森にいまして、東日本大震災の時には連絡が付かなかったのですが、しきりに「危ないことがあったら一カ所に集まれ」と言っていたことを思い出しました。
どういう意味かと思っていたのですが、知り合いの人などと一カ所に集まって対応した方が良いと言っていたのではないかと今になって思います。
昔の人はこういった言い伝えを続けてきたのだと感じました。
東日本大震災では、私の家も、瓦や内装に被害を受けていましたが、私は自衛官だったので、災害があればすぐに出て行かなくてはならないのです。その時に妻は「この時ほど私の職業を恨んだことはない」と言っていました。「そう言われても」と思いましたが、一カ月ほど帰ってくることができず、多賀城の惨状を把握できなかったのです。
被害を受けたのは多賀城駐屯地の前くらいだと思っていましたが、帰ってくる頃になって初めて、市内の中心部でも被災した車が重なっているような状況を理解したような有様でした。

防災行政無線子局の増強

(聞き手)
 震災前と比べて、機能は強化されましたか。

(松戸様)
 機能はだいぶ強化しました。
特に、市民の方への情報伝達面ですが、震災前は、防災行政無線の子局が13カ所しかなかったのを、現在では市内53カ所に建て、交通防災課から避難指示を出せば市内全域に行き渡るようにしてあります。
防災行政無線が聞き取りにくいなどの場合の補助としては、エリアメールを活用するなど、だいぶ改善されていると思います。
他にも、避難道路を作ったり、防潮堤を作ったりといった、ハード面での整備は目に見える形でだいぶ進んできています。
ただ、それがあるから大丈夫だとは、私も市民の皆さんも思っていません。
ハード面とソフト面の整備、つまりは心がうまく回らないといけないのだと、最近、特に思います。

(田中様)
 私も同じ意見ですが、職員の方の災害に対する意識は高くなっていると思います。ちょっとした地震や雨が強くなったときに自主的に参集してくる職員も多く、経験したことが活きていると感じます。

ハードとソフト両面の強化

(聞き手)
 これからの復旧、復興についてのご意見と、今回の震災を通じて後世に伝えたい事をお聞かせください。

(松戸様)
 ハード面の整備だけでは駄目で、心も一緒に機能させないといけないと、震災後、特に強く感じています。
立場上、市民の皆さんの前で防災の話をしたり、復旧・復興の話をする機会も多いのですが、震災の津波の映像やあの出来事そのものを思い出したくない方も中にはいらっしゃって、DVDを見ている間もずっと目を伏せて見ないようにしていたりします。
ですが、自分たちの経験や大変だったことを伝えていくのは、東日本大震災を経験した人にしかできないことです。
それぞれに感じたことも経験したことも違うので、それはみんなが伝えられるということなのだと思います。
例えば、写真や映像を残すということや、大変だったことや震災当時の出来事を子供や孫に語り継いでいくということも大切です。
震災を経験した私たちだから話せることもありますが、もうあと何十年か経つと、この震災を経験したことのない子供たちが大人になります。
それを考えると、防災の教訓や教育、語り継いでいくことの大切さは、ハード面の整備と同じくらい大切なこととして、多賀城市で力を入れて取り組まなければいけないことなのだと思います。
思い出すことも嫌だというところがあるのは分かりますが、この情報を外に発信することは大切なのだと思っています。

子どもたちの教育と経験・行動の継承

(田中様)
 子どもたちに対する教育と、大人がしっかり背中を見せてやることで子どもがそれを信用して、またそれを、次の子どもたちに継承していくことが大切でしょう。
一歩踏み込んだところで言えば、訓練をしっかり行う必要があります。最小限でも訓練を積んでおけば、最小限のことは出来るようになるということもしっかり教えていく必要があると思っています。

基本は「自分の身は自分で守る」という自助の意識

(聞き手)
 最後に、市への要望やここまでで言い残してしまったことがあれば、お願いいたします。

(松戸様)
 よく市民の方から、防災訓練の時の広報を聞いて、避難所に避難した方が良いのか、広報が聞こえないけどどうしたら良いのかという質問をされます。
広報が聞こえないという問題は、今も様々な改善・工夫をして、極力聞こえるように取り組んでいます。ただし、避難するべきか否かというのは、防災や減災の根底にある「自分の身は自分で守る」という点からすると、言われて避難するのではなく、自分で判断して避難してもらうべきだと思います。
その方が初動対応を早く行えます。
自分の判断で、例えば、今はまだ小雨だけれども、雨が強くなりそうだから避難して、雨足が弱まったら戻るというのでも構いません。
その辺りは、ある程度、自分の判断でしてくださる方が多くなることを望みたいです。
 行政も、自主避難を誘導する、避難できるような場所を開放するといった臨機応変な対応を心掛けるので、なるべく、市民の方も自分から動いてほしいと思います。
これは市民の方のみならず、職員も同じです。勤務時間の間は自分である程度判断して動き、組織の中でやるべき行動を事前に把握して、災害時には適切に行動する。そうした考えに基づいて行動してもらうのが私の理想です。

総合防災訓練や「防災手帳」の活用策

(田中様)
 平成25年11月4日の総合防災訓練は、従来と違いまして、各地区から同時に自分たちの避難場所へ移動する避難行動を取り、そこで市職員や自主防災組織の方、学校の先生などと連携を取って、学校で避難所開設をやっていくことになっています。
従来では、陸上自衛隊多賀城駐屯地の敷地に、全ての地区の方を集めて行っていました。それはそれで成果はあるのですが、実際に参加して、経験して頂いて、実のある訓練にしていきたいと考えています。
多賀城市では総合防災訓練を毎年行うことになりましたので、毎回、市民の方たちのためになるような訓練にしていきたいです。
 
(松戸様)
 訓練のやり方を変えるのは今回が初めてなので、職員にも市民の方にも、私はどう動いたら良いのかと思っている方はいます。
そこで質問が来るのは想定内ですが、今回の訓練で様々な失敗も出るでしょうし、課題も見えてきます。
来年以降は、実際に本番になった時に正確に行動できるための訓練として、出てきた課題を一つずつ解決しながら次回の訓練を進めていき、完成形に近づけられれば良いと感じています。
 また、東北大学災害科学国際研究所と協働して作成している「みんなの防災手帳」も市民の方への啓発事業として配布する予定です。(平成26年4月に配布済み)
3万部ほど作って、2万5千部は全戸配布、残りは転入者へ配布する予定です。
手帳には家族会議で決まったご家族ごとのルールを記入できる形になっているので、そうした使い方をしてもらいたいという願望も込めて配布します。私たちとしても配って終わりではなく、今度はそれを教材として使いたいと考えています。
例えば、防災訓練や防災講話の時に、防災手帳を持ってきてもらうようにしたり、あるいは、防災リーダー研修会や、地域の防災リーダー育成の講座の時に、手帳をテキストとして使ったりといった工夫を考えています。
 訓練をやりっぱなしにせず、結果を踏まえてどこに問題があったのか、何がうまく行かなかったのかを検証しますので、職員や市民の皆さんにもフィードバックしていきたいと思っています。