(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。
(松戸様)
発災当日は叔父の葬儀に参列する予定でした。
地震の揺れが収まった後に、すぐ職場に戻らなくては行けなかったので、1時間ほどで職場に戻りました。
当時、多賀城は防災行政
無線ではなく、有線回線の広報装置を使っていました。
広報装置は、特に水害の被害を受けやすい市内13カ所に設置されていまして、それを用いての緊急放送を交通防災課が実施しました。
1回目の広報では全て起動しましたが、2回目以降では一部が起動しなかったと聞いています。
後で市民の皆さんから、市役所からの
情報がなくて不便だったというご意見を頂戴しました。
震災前のマニュアルでは防災広報装置と、公用車による
巡回広報で市民の方へお知らせをする手筈になっていましたが、それらの広報を十分に機能させられませんでした。
巡回広報も、交通渋滞と、地震から1時間以上経過した後では津波の被害もあったので十分な広報をできませんでした。
これらの要因が重なり、
情報不足というご意見に繋がってしまったのだと思っています。
職員の初動から動き出すまでの部分は、比較的マニュアル通りに動いていたように感じます。
防災訓練や大雨が降った時、台風が近づいている時に取る対応はどこの自治体も同じだと思いますが、多賀城市でも、災害対策本部を設置し、状況把握のために職員を担当地域に派遣しました。
施設を有している部署においては施設の被害状況を把握するために
情報を回し、職員の
安否確認をしていました。
ただ、その時点で電気が止まっていたので、十分な
情報収集ができなかったと聞いていました。
また、午後4時過ぎから、津波が到達している状況が
無線機などで入ってきました。
今でこそ当時の映像を見ることができるのでイメージできますが、当時は多賀城にあれほどの津波が襲ってくるというのは想像以上の出来事で、頭の中でも心の中でもイメージすることができませんでした。時間の経過とともに多賀城の大変な状況が徐々に判明してくるというのが、当時の印象でした。
市民の方との関わりという部分では、発災直後ですと、当時は全ての
情報伝達手段、特に電話が使えなかったので、市役所に直接来られた市民の方との対応でしか関わっていませんでした。
そのほとんどは
安否確認に来られた方でした。「家族と連絡がつかない。どこの
避難所にいるか分かりませんか」「どこに行けば家族に会えますか」「避難者の名簿はまだ出来ていませんか」というような
情報を欲しておられました。
先ほどのような
情報が聞こえないというご意見や市役所の対応に関してなどよりも、発災直後の市民の方の
安否確認と避難場所の確認、そうした部分で、私は市民の方と関わりました。
(聞き手)
当時は、どのような状況でしたか。
(松戸様)
発災直後ではまだ組織体制が整っていなかった上に電話も繋がらないので、市民の方は、とりあえず縋る場所として災害対策本部にいらっしゃったのでしょう。
交通防災課の事務室が災害対策本部の事務室と隣同士だったので、市民の方が交通防災課の事務室に直接来られて、それに対応した形でした。
ですが、それですと災害対策の業務が滞ってしまうので、市役所の一階、つまり案内のところに総合窓口を設置しました。
(田中様)
当時、私は自衛官でした。陸上
自衛隊多賀城駐屯地で教育を受けておりました。地震の直後、すぐに災害派遣の準備を行いましたが、その時に私たちは組織上、直接担当する地域がありませんでした。
ですが、あまりに被害が甚大だったので他の部隊に編入されて、12日の朝に野蒜小学校へ向かいました。そこで1週間ほど、救出や捜索を行うことになりました。
体育館が避難場所として指定されていたのですが、野蒜付近は特に被害が大きく、体育館に避難された方の大半が津波で亡くなられたそうです。私が着いた時にはまだ、ご遺体が小学校の敷地内や道路の横などあちこちにありました。
中には三重、四重になった車の中でシートベルトをしたまま亡くなった方もいました。
1週間ほど救出活動などを行っていましたが、そちらでの任務が解除され、今度は石巻に行くことになりました。
当初は支援物資の配布などを行いまして、石巻市民の方と接することができました。そこで、公的組織の者が被災者に接する時には、被災者の目線に立って接することが一番大事なのだと感じました。
冬で寒い時期でしたが、私たちは手袋なしで作業して、食事も人の見えるところでは取らないようにし、休憩もなるべく取らない、取っても人に見せないように心掛けていました。
そうして一カ月ほどが過ぎた後、今度は私たちの本来の任務である、即応予備自衛官を受け入れる仕事を始めました。その方たちを連れて、また石巻へ行き、同じように支援活動をしました。最後の頃は石巻の門脇小学校前の住宅街でがれき撤去を行っていました。
(聞き手)
多賀城市に勤務されたのかいつからですか。
(田中様)
2011年の10月からです。3月に発災があったその年に定年退官し、その後、交通防災課に配属になりました。